アルバム出たけどメンバーは違ってて
“ヘンな感じ”みたいな(笑)


「ファーストアルバム('97年『POTS AND SHOTS』)を出すことになったキッカケは、CRジャパンのオムニバス『スカンキン・イン・ザ・ピット』('97年)に入って、そのレコ発が大盛況だったんです。下北沢のシェルターでソールドアウト、即完。で、そのライヴに出たバンドの中で、レーベルの契約がなかったのが、確かウチだけだったんですよ。ウチとヤングパンチだけとか。そしたら、CRジャパンの社長が“じゃあ今度ウチで単独を出さないか?”って言ってくれて。
 でも、そのとき並行して、もうマイク・パークのエイジアンマンレコードの話もあったんです。エイジアンマンで単独の7インチとか出してくれるって約束になってたから、俺はそっちのほうが興味あるって言ったら、CRジャパンの社長ってアメリカ人だからマイクに直接電話して、日米共同リリースにして“日本はCRでアメリカはエイジアンマンだったらどうだ?”って。それで“それなら問題ないッス”ってことで、ファーストアルバムになったんです。
 だから、すごくうまく行ったんですけど、メンバーの問題が…。ファーストアルバムのレコーディングを最後に、プリ・スクール組とはサヨナラで(※前編参照)、それから無理矢理集めたんですよ、紹介なんかで。そのとき集めたメンバーで今も残ってるのは、サトシぐらいですね。あとチャッキーがトランペットで参加してましたけど(笑)。で、チャッキーとセットで、ドラムのヌマって奴が入ってきて。でも、そのメンバーでの音源は、ないですね。だから、アルバムは出てるけどメンバーは違ってて、“ヘンな感じ”みたいな(笑)。
 ファーストアルバムのレコ発も一応ありましたよ。そんときのメンバーは、ヴォーカル、ギターがサトシ、ベースがヨシト、ドラムがヌマで、トランペットがチャッキーだったっけな? コーヘイだったっけな? チャッキーかな。まぁ満足なメンツじゃなかったですね。あとサポートで、テナーサックスのユキオって奴がいて。
 そのレコ発は共同で、ウチとケムリとダックミサイルとヤングパンチで、東京・大阪・京都・名古屋・長野のツアーをやったんですけど、その東京の新宿ロフトを、ウチのレコ発みたいな感じにさせてもらったんです。それもソールドアウトでしたね。だから端から見るとトントン拍子だったんでしょうけど、でも見る人が見れば、なんか演奏はバラバラで“なんだよ”みたいな感じはあったでしょうね。流行りで出てきてみたいな感じで、たぶん陰口もありましたね。
 でも、やっぱり状況が良かったから、もうちょっと何とかなればなぁとは思ってても、ツライとは思わなかったですね。これでアルバムが出てなかったら別ですけど。やっぱり環境っていうか状況が進んじゃうから、まぁ流されてたのか何なのか(笑)」


チャッキーから“もう1回やらせてくれないかな?”
って。で、ちょっと感動もあったりして(笑)


「CRジャパンからTVフリークに移籍して、B・O・Bアニマルズとスプリットのシングルを出すんですけど、そこまではドラムはヌマですね。でもチャッキーが、もうホントにトランペットが吹けなくて、そのときはクビになってる時期で。だからホーンは、コーヘイとユキオっていうラインナップですね。で、6人。
 トランペットがチャッキーとコーヘイっていう時期は、ないんですよ。チャッキーがトランペットで入ったころは、コーヘイも半分サポートみたいなもんだったから。全然ロックとかに興味なくて、ベースのヨシトの大学の後輩で、ジャズ研で吹けるから無理矢理入ってたみたいな。だからプリ・スクール組が抜けるときに、じゃあコーちゃんも1回ここで仕切直しでサヨナラってことで。でも、チャッキーがあまりにも吹けなかったから“コーちゃんゴメン、戻ってきて!”って言って呼び戻したんです(笑)。サイテー野郎ですよね(笑)。でもバンドを切り盛りするほうとしては、しょうがないですから。
 で、トランペットとサックスがいて、ずーっとトロンボーンを入れたいっていうのはあったんですけど、結局見つからなくて。それはチャッキーも知ってるわけですよ。だから、トランペットだったら結局コーちゃんのほうが上手いってことでクビになってから、こっそり練習してたんですよね。で、そのB・O・Bアニマルズのスプリットが終わったあたりだったと思うんですけど、“もう1回やらせてくれないかな?”みたいなのがあったりして。で、ちょっと感動もあったりして(笑)。“じゃあ戻ってこいよ”って。だから一時期は7人編成でやってたんです。
 でも結局、ヌマには抜けてもらって。それから、またイッペイ(田島一平/現プリ・スクール/Dr)に叩いてもらったりとか、B・O・Bアニマルズの…今はコケティッシュってバンドでドラムをやってる人に手伝ってもらったりとか。あと、もう1人いて、3人ぐらいをローテーションで回すみたいな時期がありましたね」


コバさんに“今さらスタジオ代、
1人1,000円払いますか”って


「(ヤングパンチのフクイ君と)TV-FREAKレコードを設立したのは、自分たちのためと後進のバンドのためと、あと単純に面白そうじゃないですか。その苦労とかもまったく知らなかったから、もうとりあえず飛びつきましたよね。“やってみない?”って言われて、チャンスだと思ったから。だから当初は、完全に自主じゃないわけですよ。まぁ雇われ店長みたいな感じですね。リスクもそんなにないし…みたいな感じだったから、じゃあやるべって感じで。
 で、ヤングパンチのファーストフルアルバム('98年『WHERE IS THE OTHER SHOE?』)かな? そのツアー(“レッツゴーやぶれかぶれ”)に一緒に行くのが決まってたんですけど、ドラムが3人とも都合つかなくて“やっべ〜”って(笑)。それで、UKプロジェクトの北島さんに“スタジオミュージシャンいないですか?”って相談したんですよ。そういう感じで、ツアー1本お金を払って来てくれる人。そしたらコバさんを紹介されて。最初は、お互いにそういうつもりで1本ツアー行って、そしたら本人がやる気になってくれて。
 メンバー内では、賛否両論でしたね。やっぱり世代も違うし、“正式メンバーにするのはやめたほうがええんちゃう?”って言った人もいるし。当時まだセカンドアルバム('98年『ROCK'N'ROLL』)も出てない、要はもうアマチュアですよね。別にバンドでギャラとかも出てない時期で、スタジオ代もワリカンで払ってましたから“そんなん実際やってけるの?”みたいな。だから、それも言いましたよ、コバさんに。“今さらスタジオ代、1人1,000円払いますか”って。それでも“払う”って言ってくれましたね。
 本人的には、まだストレートなロックとかをやっていたい、みたいな。やっぱり、ある程度落ち着くと、みんな落ち着いた音楽やりだすじゃないですか。じゃなくて、自分はまだラモーンズとかをやっていたい、っていう」