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貧乏な意識はなかったけど
裕福ではなかったです
「出身は…本籍は広島なんですけど、生まれたのは京都ですね、お袋の里帰りで。それから、オヤジの仕事の関係で小学校の4年生までは東京。それ以降は、ずっと広島です。
両親と4つ上の兄貴と自分の4人暮らしでした。ジイさんは父方も母方も、もう亡くなったんですけど、バアさんはどっちも元気ですね。貧乏な意識はなかったけど、裕福ではなかったです。特に不自由した記憶はないけど、オヤジが公務員だったから普通でしょうね」
“髪を切るかサッカー部を辞めるか”って
言われて、もちろん迷わなかったですね
「ロックを意識したのは遅いほうですね。中学のころに、日本のバンドだとアナーキー、流行りモノだと横浜銀蝿を聴いてたんです。そのころからグレてたんですよ、何不自由ないくせに。あのころは校内暴力だとか、なめ猫ブームで。ロックを意識していたら、あんな格好してなかったと思うんですよね。
だからアナーキーは、ロックとかパンクというよりも完全に暴走族のイメージで、“これがテーマソングだ”という気で聴いてました。で、麻雀やったりシンナー吸ったり…っていうのは周りのヤツがね(笑)。だから自分で音楽をやろうというのは、まったくなかったですね。
中学のときから、サッカーをやってたんです。自分で言うのもなんですけど、結構うまかったんですよ、たぶん(笑)。でも、サッカーってチームプレイじゃないですか。だから、グレ始めて素行が悪くなってくると、やっぱり我が強くなってきて、わがまま放題。本当はキャプテンをやるところなんだけど、そういう感じだとキャプテンには向かないし、そもそもそういう性格でもないから、副キャプテンやったりとか。
で、ムチャクチャやりたい放題のまま高校に上がったんですけど、ダメでしたね。体育会系のノリが苦手なんですよ、反抗したくなってきて。普通の1年生は、校門で先輩とすれ違ったりすると、アホみたいに気恥ずかしい声を出して“おはようございます!”とかって言うんですよね。でも、そんなの俺は絶対にできねぇと思って、意外に馴染んじゃった先輩もいたから“ヨッ!”とかやってたんです。それでOKな先輩もいるんだけど、ダメな先輩もいたみたいで(笑)。
それで急に監督に呼ばれて、まずはパーマかけてる髪を切らせたいわけですよ。で、サッカー部の風紀とか秩序が乱れるから“髪を切るかサッカー部を辞めるか、どっちかハッキリしろ”って言われて。もちろん辞めるに決まってて(笑)。迷わなかったですね」
すぐにバンドとして成立して
コンテストで優勝したんです
「サッカー部を辞めて、それからですよ、“どうしよう”というのは。青春がもったいない、と(笑)。で、中学校のときにレインボーとかは好きだったんですけど、学校にギター弾ける奴がいて“レインボーをやろう”と。で、話を聞くと“ベースがいないんだよね”とか言ってて。だから、そこで一応キッカケだと思ってフェルナンデスのプレベ(プレシジョンベース)タイプを買って、やり始めましたね。
でも結局、レインボーのコピーバンドはやらなかったんです。なんかイイ奴だったり安全な奴で、つまんなくなっちゃって。それで、中学校のツレと始めたんですよ。中学のツレって、みんなもっと悪い連中だから。で、昔からすごくギターが上手い奴がいて、そいつと一緒に始めたんですけど、すぐにオリジナルも作り始めて。コピーは、ザ・モッズとか、そのころから洋楽パンクを聴き始めてたから、ザ・ジャムをやったりしましたね。
で、順調だったんですよ。“ブリクション”っていう名前で、すぐにバンドとして成立して、地元の大会みたいなのに出ましたね。そこでローリー(現ザ・コルツと現ザ・サンズのメンバーが在籍したバンド)は、1年生で優勝したんですよね。僕らは、そこまでの勢いはなかったけど。5回戦ぐらいあって、もう2年のころに決勝戦まで行って。本当はアマチュアバンドは出してくれなかったんですけど、ウッディストリート(広島のライヴハウス)の原さんって人に、大抜擢というか“お前たちを出すことを考えてる”と。ただ、ルールがあって例外が認められないから、コンテストで優勝したら出てもいい、って。で、優勝したんですよ、ヤマハのコンテストに。それでもう天狗ですよね(笑)。
だから、学校にベースとかギター持って来る奴を軽蔑してたというか、そういうのは恥ずかしいことだと思ってました。学校には一度も持って行ったことがなかった。そういう変な意識を持ってたから、学祭には一度も出たことがなくて。そういうサークル活動みたいなノリが嫌いで、外で全然同じことやってるんだから結局一緒なんですけど、学校でワイワイキャーキャーっていうのは違う、と勝手に思ってましたね」
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