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卒業文集に書いた“将来の夢”はコックさん。
今でも料理を作るのは好きです
「生まれは千葉市です。実家から車で5分くらいのところで生まれて、今の家には1才から住んでます。僕の誕生日に引っ越してきたんですけど、それからずっと。一時期、大学のときは一人暮らしだったんですけど。
小さいころは…両親が共働きだったから、2才のときから保育園に行ってました。当時のことは、あまり覚えてないんですけど、泥んこ遊びが好きだった(笑)。
小学校のときは、2年生から6年生まで少年野球をやってたんですね。ポジションは、そのときによって違うんですけど、いつも内野でしたね。サードやったり、セカンドやったり。打順は2番が一番多かったかな。でも、野球選手になりたいとは思いませんでしたね、なぜか。
卒業文集に書いた“将来の夢”は、コックさん。料理を作るのが好きだったからじゃないかな、今も好きなんですけど。結局、親が共働きだから。家の手伝いはよくやってましたよ、洗い物したりとか。まぁ典型的な鍵っ子ですよね。
兄弟は、2才上の姉ちゃんがいて、あと犬がいたんです。マルチーズを買ってもらって。親が帰ってくるまで、それで楽しんでた。で、姉ちゃんがホント強かったんですよ。中学校に上がるくらいまでは、腕相撲で勝てなかった。ちなみに僕、力あるほうなんですけどね。それでも余裕で負けてた。すごく強くて。だから、小学校のころは逆らえなかったですね。でも、中学校ぐらいになると大人になってくるから、わかってくるじゃないですか。“女の人には手を上げない”っていう感じで育ったし。まぁ一姫二太郎には、よくあるパターンですよね」
負けるのがホント嫌いだったんです。
“体使ってでも止める”みたいなことを教わって
「中学校のときは、部活で3年間サッカーをやってたんです。小学校4年から少年野球と並行して、学校のほうのクラブでサッカーをやってたから。もう“キャプテン翼”ですよ(笑)。中学のサッカー部は厳しかったですね。先生が元全日本のメンバーだったんです。柴崎先生って言うんですけど(笑)、その先生の教え方がハイレベルで。で、僕にもサッカーで高校推薦っていう話とか、ちらほらあったし。
ポジションは、ハーフをやってました。2〜3年あたりから守りのハーフをやったりして、最後はスィーパー。キーパーの前の要です。体は小さかったけど、筋肉が結構あって…まあ今はちょっと贅肉ばっかりなんですけど(笑)。でも僕、今も胸筋動くんですよ。負けるのがホント嫌いだったんですね。だから、体使ってでも止める、みたいなことを先生から教わっていて、そういうところがまた先生的にはすごく良かったみたいで。勉強も普通によくできたほうだったから、“オマエはそれなりの学校でサッカーやれ”って。結局、行かなかったんですけどね。
音楽に関しては、中学のときは普通に聴くぐらいでしたね。こだわって聴くっていうのはなかった。それこそザ・ブルーハーツとか、あと普通にJ-ポップとか。そんなに興味なかったっていうか、どっちかと言うとサッカーに熱中してたから。あ!
でも小学校のときは、おニャン子クラブ大好きだったな(笑)」
テニス部は走るのが嫌で辞めました。
基本も
大事だけど、走ってるだけじゃ意味がない(笑)
「高校では僕、ラグビーがやりたかったんですよ。ナンバー8みたいにちょこちょこするようなポジションだったら、体が小さくてもできるじゃないですか。そういうのがすごく得意だったから、ラグビーやりたいなと。で、明大に行きたかったから、明治大学付属中野高校とか受けたんですけど、受からなくて(笑)。
それで東海大学の付属に行ったんですけど、ラグビー部がなかったんです。で、サッカー部は坊主にしないとダメで。じゃあラグビー部を作ろうって話になったんですけど、学校の先生が許してくれなくて。かと言って、部活をやらないと大学に上がれないから、テニス部に入ったんです。でも見事に、ほとんど行かないうちに辞めましたね。走るのが嫌だったんです。“なんで乱打させてくれないんだよ”って感じの考えなんですよね、どっちかと言うと(笑)。基本も大事だけど、走ってるだけじゃ何も意味がないっていう(笑)。
だから高校のときは、阪神タイガースに熱中してました。ずっと阪神ファンで、もう保育園のころから阪神の帽子をかぶらされてたんです、親っていうか関西のおばあちゃんに。で、当時は掛布が一番すごくて、掛布も千葉の人なんですよね。家が千葉駅の付近で、そのへんの学校に行ったんですって。そういうのもあって、自分も少年野球をやりたかったんですよね」
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