“こんなことも歌詞でやってええの?”って感じでね。
アイドルみたいな人が、そんなことをやっている
というのが“ヘェ〜ッ”って感じやった

 といっても、当時の日本でのスタイル・カウンシルの受け入れられ方は、カフェバー向けのおしゃれな音楽。本当は、とんでもなく政治的な歌詞を、あのジャズっぽい、そして、ソウルっぽいサウンドに乗せていたんだが、どこをどう誤解されたのか、あるいは、まったく無視されたのか、歪曲されたのか、はたまた音楽メディアの無能のせいか、日本では彼らが政治的で過激なことを歌っているバンドだとは受け取られてはいなかったはずだ。が、面 白いことに、中川敬はスタイル・カウンシルが本来持つ魅力をストレートに受け取っていた。
「俺も、マニアやったからね。『ザ・ギフト』(ザ・ジャム/'82年アルバム)とかも、訳詞とかグアァ〜ッと読んだしね。『カフェ・ブリュ』(ザ・スタイル・カウンシル/'84年アルバム)とかも。“こんなことも歌詞でやってええの?”って感じでね。今からしたら、プロテストソングやねんけど。アイドルみたいな人が、そんなことをやっているというのが“ヘェ〜ッ”って感じやった。まだ、彼も若かったし…。ジャムを解散したときも、まだ21とか、そんなもんやろ?」
 そのポール・ウェラーも、レッド・ウェッジの失敗で、積極的な政治活動に幻滅し、どこかで強力なポジティヴさを失っていったような気もするのだが、一方で中川敬は、より先鋭的に、よりポジティヴに進化していったように思える。おそらく、そういった彼の姿勢が、“口がでかい”あるいは“態度がでかい”といった印象を一般 に与えていくことになるんだろう。
 もちろん、そう言葉にすると、彼はそれを笑いながら否定し、「いや、そのつもりはないねんけどね。黙ってるつもりやし…聞き上手というか…ハッハッハ」と冗談を飛ばしてくる。このあたりの、関西人的漫才ノリからは、堅物で硬派なイメージはまったく感じない。が、中川敬は、おそらく、日本でもっとも明確に自分の意志をストレートに発言し、ただ問題意識を持つだけではなく実際に動くミュージシャンのひとりだ。なぜか政治や社会的な側面 を拒絶したり、触れることにすら臆病なミュージシャンで溢れたこの国では、珍しい存在だと言ってもいい。といっても、そういった事態こそが異常なのであり、彼のそういった姿勢をあらためて話題にして、それに関して書かなければいけない状態こそが問題なのだ。それでも、なぜ彼は語るのか、そして、動くのか…。そのあたりに話がつながっていく。


メスカリン・ドライヴっていう仲間がデカかったね。

いろんなことがありましたわ、ハードコアから攻撃受けたり…。
そういうのに対しても、一緒に闘ってる感じやったし

「いろんなものと出会って…今は、もう、ニューエスト・モデルを組んだ頃とは次元が違うよね。やっぱり、きっかけは'80年代の反原発運動やったかな。ニューエストのライヴに広瀬隆(『東京に原発を!』などの著者)呼んで講演会やったり…。なんでかなぁ、まわりにそういうことを言うヤツがいたんとちゃうかな。本を読ませてくれたり…。まぁ、最初は、そういうことをやるのがロックやとかパンクと思うてたんとちゃうかな。やむにやまれぬ という感じじゃなくて、カッコええと思うてやってたから」
 ところが、そういったプロセスで、いろんな経験を積んでくるわけだ。それが“ただのかっこよさ”を求めるものから、どこかで“やむにやまれぬ る”ものへと変貌していったんだろう。
「たとえば、反原発運動とかのデモに行って幻滅したとか…そんなこともあったよ。でも、何よりも自分の感性としか言いようがないなぁ。'89年にヒロヒトが死ぬ やん。それ、デカかってん。で、いろいろ知ろうと思てね、日本って何やねん…とか。だからといって、Xデーにギグをやるとか誘われても、それはダサイなぁって感じで、何かが違うという…それを自分では言語化できないね。そういった意味での影響はされなかった」
 何かに対する言葉にできない気持ちがあっても既存のものには入ることができないという苛立ちもあれば、どこかに違和感がある。といっても、自分の内にある何かをしないといたたまれないような気持ちも否定できないだろう。だからこそ、結局は自分で動かなければいけない。下手をすれば、完全に孤立してしまうことだってあるだろう。が、中川敬には仲間がいたのが大きいと語っている。
「メスカリン・ドライヴっていう仲間がでかかったね。彼女らはニューエストが反原発とか言ってても、そんなん興味ないのよ。けど、言うてることは正しいって応援してくれてる感じ? 当時から“男の子やもん。こんなことするのもしゃあないわ”みたいな感じで言われてたな(笑)」
 言うまでもなく、ソウル・フラワー・ユニオンがこの両者が合体したようなものであり、彼女らを切り離して語ることはできないだろう。
「まぁ、結成も同じぐらいやし。連中が'84年で…それに'86年から伊丹英子と一緒に暮らし始めるからね(笑)。住んでる家が、ソウル・フラワーのオフィスやったし…。いろんなことがありましたわ、ハードコアから攻撃受けたり…。そういうの(に対して)も、一緒に闘ってる感じやったし」