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英米の真似ごとのようなロックからより、オリジナルな音楽を求めて…と言えば、聞こえはいいかもしれないが、それを意図したにせよ、しなかったにしろ、ニューエスト・モデルがメスカリン・ドライヴと合体するようにして生まれたのが、そういった指向性を打ち出したソウル・フラワー・ユニオンだった。いま思えば、彼らとの出会いはこの頃に遡る。
あの当時、パンクとヒッピーが一緒になったようなクラスティという動きが英国で生まれ、そんなシーンを代表するバンド、レヴェラーズの東京公演で、プロモーターを口説き落として実現させたのが、対バンとしてソウル・フラワー・ユニオンに登場してもらうことだった。このとき、初めて中川君や伊丹秀子女史と出会っている。このとき以来、互いに顔を合わせてはいろんな話をするようになったのだが、こうやってじっくりとインタビューしたのは、今回が初めてだ。だからこそ、根掘り葉掘り、彼の歴史を探るべく長いインタビューとなってしまった。
さて、連載インタビューの4回目となった今回は、ソウル・フラワー結成から、類まれなソングライターとしての才能を開花させた'95年あたりの大事件を中心に、今のソウル・フラワーの核心に迫りたい。実に、あれから7年。あれこそが、中川敬を大きく変えることになった、きっかけとなっている。
俺らが知り合ったアイヌの人たちは
“気にしてタブーにすることはないよ”って
言ってくれたから。それはすごい助かったよね。
「(サウンドとか)あんまり深く考えてなかったからね。好奇心の向くままに行ったというか…。ああいった方向性がロックだとかいうのもなかったし。ロックだということ自体が、すごく保守的でバカらしいことだと思っていたからね。『ロッキングオン・ジャパン』では、“もっとロックを打ち出してくれ”みたいなことが連載のように書かれていたけど、ロックも糞もない。“大音響でギター鳴らしたらロックなんかい?”って感じやね。まぁ、向こうには“民謡なんかやらんといてや”みたいなところがあるわけよ。結論は見えなかったけど、やっていることの意味はあると思ってた。ここまでみんなが嫌がるということは…これは、意味があるってふうにも思ってたね」
その頃、中川敬が積極的にアイヌ問題にアプローチしていったのは前述の通
り。彼のことだから、さまざまな書籍を読み、勉強するだけではなく、いろんな場所に実際に足を運んでいったに違いない。が、どこかで市民運動や社会運動体には、新参者を拒否するような、あるいは、冷遇するようなきらいがある。彼も、そういった場面
に出くわしたのではないだろうか。
「こういうのって、全部そうやけど、直接来ないねん。あとで噂で来るねん。あの当時、シャモ(日本人)が、やまとんちゅう(沖縄の言葉で本土の人を示す)が、いかにアイヌモシリを蹂躙したかということを『お前の村の踊りを踊れ』という曲でラップしててん。その時もウタリ協会とかに連絡して、“こういう歌詞でラップをしようと思うてんねんけど、どう思いますか”って、英坊とかが電話で訊いてんねん。手順は踏んでるねんけどね。ただ一方で、俺らがアイヌのことをやって、彼らが“なんでやねん”みたいな感じで反発されたほうが、えぇんちゃうやろうか…とは思っててん。言うても、直接、俺らが知り合ったアイヌの人たちは“中川君、やれやれ”って感じやったからね。“気にしてタブーにすることはないよ”ってハッキリ言ってくれたから。“もし、それを気にしてたら今までの続きになるから”ってね。それはすごい助かったよね」
当然ながら、これはアイヌ問題に限ったことではなく、さまざまな局面
で出くわしていく。
「そういったことは絶対に起こるって思ってるし、それが起こることが別
に悪いことやとは思ってないねん。何も起こらないよりはね。そう、酒の肴にしてほしいと思うてるもん。こっちはちゃんと、けんかする用意はできてるからね。口でやけど(笑)。ホンマ、喜納昌吉にもハッキリ言うたし…。実は、去年、沖縄で彼と大げんかしてん、ハッハッハ」
神戸に行ってアコースティックでやろう
と言い出したのは、伊丹英子やね。とにかく
行ってから考えようや…。それが続いてしまった。
そのソウル・フラワーに関して言えば、あの時代から“いいバンド”だとは思ってはいたし、だからこそレヴェラーズとの対バンをアレンジしたのだが、ストレートに、有無を言わせないほど感動したのは、それからさらに数年後の『アジール・チンドン』(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット名義)を待たなければいけなかった。実を言えば、生理的と言ってもいいほどの、ある種の嫌悪感を持ってたのが、労働組合や左翼の歌。が、そんな偏見やイメージを完全に払拭させられることになったのが、このアルバム。さらには、こういった歌が本来持っていた力強さや魅力を真正面
からぶつけられたと言ってもいいだろう。そのプロジェクトが生まれていくきっかけになったのは、もちろん阪神淡路大震災。何かをしなければいけない、と彼らが動き出したことに端を発している。
「いやぁ…。いろんな要素が入ってるな、それは。まぁ、とにかく神戸に入っていってアコースティックでやろうやないかと言い出したのは、伊丹英子やね。“あたしら民謡好きやねんから、歌本でも持っていって、避難所のじいさんやばあさんと一緒に歌おうや”って、最初はそんなノリやってん。俺は、遊びで三線をやってネーネーズとセッションとかやっていた時期やったから、まぁ音楽的な遊びもなかったら続かないやろうし、単なるボランティアじゃできないだろうし…。とにかく、行ってから考えようや…。それが、続いてしまったんやけどね。
最初から、オリジナルはやるつもりはなかったし…。長田がどういう地区かというのも知っていたし、いろんな人間が集まるということを想定してね。沖縄は2曲ぐらい必要やろうし、コーリアンもいるなぁ、アイヌ民謡も入れとこう、歌声の頃のもいるやろう、'60年安保の頃や'70年安保の頃、それに戦前のとか…。はじめから戦略的やったね、あれは。調べた歌もあるけど、すでに好きやったね。ビリー・ブラッグの『インターナショナル』とか…。あれが大きかったね。こういった、かつて民衆に歌われていた歌とか歌ってみたいというので、勉強したというか…(笑)。そんなとこがあったな」
そうやって現場で歌ってみる。おそらくは、多くの人たちがそういった歌を知っていた、あるいは、喜んだからこそ続いていったんだとは思うが、実際のところはどうだったんだろう。
「やってみるまでは、実際、不安やってん。ところが、盛り上がるねん。あるおじいちゃんは“えぇ曲やねぇ”って、それが『花』(喜納昌吉)やったり…。と思ったら“昔、私、仕事のあと、毎日歌っててん”っておばちゃんが言うから、何やろうかと思ったら『がんばろう』やねん。こういった曲ってのを、ずっと続けてやっていくとかじゃなくて、とにかくやってみるねん。それでウケるかどうか…。それで“えっ、そんなに歌われてた曲やねん!?”って驚かされたり…」
大きいことは言えないけど“俺は歌い手で良かったな、
ひょっとして歌を歌うということは
おもろいもんなんやな”と思ったね。
こういった新しい“歌”の発見も新鮮な驚きだったろうし、また、通
常のロックのオーディエンスとはまったく違った人たちとの出会いも、大きな影響を彼に与えたのではないだろうか。このあたりを契機に、いろんな意味でソウル・フラワーが、より足を地に着けた力強さを持ち始めたように思えるのだ。
「大きかったね、ジジババたち(笑)! 言葉にしにくいねんけど、たとえば、火事で周りがみんな焼けた中で『アリラン』とか歌ってて…さっきまで笑ってたおばあちゃんが、ぼろぼろ涙を流しながら歌い出したりというのを見るとね、“どうしたん?”とは訊きたくないというか、それだけで何かを考えさせられるよね。そんなんの連続やったから。大きいことは言えないけど、俺は歌い手で良かったな、ひょっとして歌を歌うということは、おもろいもんなんやなと思ったね。それは感覚的なもんやねんけど」
この経験が、中川敬にどれほど大きなものを与えたか…そこには語り尽くせないほどのものがあるはずだ。
「正直言って、震災以降やね。俺が、歌っていることを実感として知っていったのは。それまでは、俺に言わせたらインテリやね、やっぱり。'95年以降、明らかに違うバンドになったからね。その前の3年間は、ニューエストとメスカリンの奴らが集まったスーパーセッションみたいなものや。それ以上のものは何もなかった。だから、俺にとってのソウル・フラワーのファーストアルバムは『アジール・チンドン』やねん。そんで、セカンドは『エレクトロ・アジール・バップ』。名義は違うけど、明らかに違うバンドや」
そうまで言い切るほどに重要なものだったこれが、実は、あほらしいばかりのメジャーレコード会社の姿勢をバネに作り出したのが面
白い。
「『満月の夕べ』をシングルとして発表するときに、カップリングは『復興節』しかないやろうと思ってたんやね。で、3番と4番の歌詞を俺のものにして…。何の問題もないんや、俺にしてみれば。東京の永田には金がある、神戸の長田には歌がある…それだけのことや。でも、“永田”のことに触れるというのを怖がったね、キューンは。ホンマ、アホや。ただのアホや。
でも、英坊は賢かったね。俺は怒ってるだけやってんけど、英坊はひらめいた。普通
、メジャーと契約したらインディでは出せなくなるんやけど、ここ(頭を指して)に電球があるねんね。それがひらめいた(笑)! “これ、こじらしたらインディで出せるぞ”やからね。俺、この人はホンマに賢いと思うたからね(笑)。ほんで“あんたは怒り役やって”ってことになって、怒り続けて…。そしたら、キューンのほうが“それやったらインディで出してください”ということになってね。“よっしゃぁ〜”やね。もちろん『復興節』だけ出しても仕方がないから、ライヴなんかも録って出してん」
『満月の夕べ』は、俺が初めて三線で書いた曲かな。
その頃、三線しか触ってなかったから。
とにかく神戸でやってたから練習せなあかんやん。
さて、このとき話題になった『満月の夕べ』だ。かつてアイルランドからドーナル・ラニーが来日して、中川敬やヒートウェイヴの山口洋と同じステージに立ったときに、この曲を演奏しているのだが、演奏を終えたドーナルが“なんて素晴らしい曲なんだ”と驚きの声を上げたのが印象的だった。おそらく、ソウル・フラワーの歴史だけではなく、日本の音楽史上ベストの1曲として記憶されることになるだろうこの曲は、圧倒的な存在感と完成度を持っている。どんなプロセスで、この曲が生まれたんだろうか。
「2月やねんけどね、この曲を書いたのは。'95年の震災から1ヶ月後。書いたときのこと、覚えてないねんね。ほとんど2日にいっぺんは神戸に行って…。ずっといたんだけど、それも良くないやろうから帰ってて…。ヒートウェイヴの山口が(震災の前やけど)“2月にそっち行くから、一緒に曲を作ってほしい。今まで共作ってないから、中川なってくれんか”と言われててね。で、2月に来よってんや。このクソ忙しいときに…って感じやってんけどね(笑)。
で、うちに彼が来て、Aメロだけ一緒に作って。あいつがギターで、俺が三線で…。山口は、そのメロディがピンと来なかったみたいやねん。でも俺は、これは相当いいぞ…続きを書かないと…。本当は、山口がその続きを書くつもりやったらしいねんけど、俺がそのまま一気に続きを書いてしまったんやね、あいつが帰ったあとに。歌詞も、曲の構成も…全部書き上げてしもうてん。ほんで、神戸でやり始めてん。
で、3月の中旬ぐらいにパワーステーション(かつて新宿にあった日清製粉の経営によるライヴハウス)のライヴがあって、久々に東京に行ったときに山口君が楽屋に来てて、“あの曲なぁ、もうやってんねん”って言うたら、“ずるい!”って…(笑)。でも“今日ライヴでやるから聞いて”言うたら、“いい曲や。俺もやる”ということになって…。
いや、ホンマ、深くは考えてなかったけどね。ただ、言えるのは、俺が初めて三線で書いた曲かな。その頃、三線しか触ってなかったから。とにかく、神戸でやってたから練習せなあかんやん。ジジババの前で下手な芸はできないから。『アリラン』とか『カチューシャの歌』とか、そういったのと同じような詩を書こうという…。深い感じじゃなくて、ああいうメロディを書こうという…。歌詞は、当時のものが反映されたんと違うかな。ホントに、歌詞も5分か10分やからね。ぱ〜っと書いたし。明日、この曲やらなアカンから早く書かんと、って感じやってん」
その『満月の夕べ』が、どれほどの完成度を持っているか…それをここで重ねて書く必要もないだろう。すでにスタンダードと言ってもいいほどの存在感を持っているのが、この曲だ。
「でも、モノノケ・サミットをやるまでの僕の作風というか…ニューエストからソウル・フラワーと、スタンダード的なものは絶対にやらないという気持ちやったからね。若かった頃(笑)、スタンダードの安直さというのが嫌やってん。みんなで合唱するのも気持ちが悪かったし…。感覚的なものやねんけど。あの頃、特に上の世代からそういう声が多かってん。“中川君の歌詞はわかりにくいよ、一緒に歌おうとは思わないし”って。もっと軽い意見では“カラオケには登録しにくい”とか…。そんなことわかってたし、そうしてるもん…って感じ? でも、モノノケ以降、考えが変わってん」
それが、あのプロジェクトを通しての体験だった。
「なんか、みんなが気に入って歌ってしまう歌というのが必ずあるなぁ…。それぞれが勝手に自分の記憶と重ね合わせてね、自分の歌のように歌を持てる感じ? それがいいなぁと思うてん。あるおばぁちゃんにとっては、それが『インターナショナル』であったり、あるおじいちゃんにとっては、それが『ありがたや節』であったり。何でもえぇねんね。
たとえば、モノノケで黒田征太郎と一緒にライヴをやったときに、彼はずっと後ろで絵を描いててんね。'95年やったかな、神戸で。最後の『さよなら港』をやったときにね、彼が描けなくなってん。あとで訊いたら、彼は船乗りやってんて。『さよなら港』を聴いて、カッコえぇと思うたんやて。“これ、実は、僕のルーツの曲やねん”って言い始めてね。ホント、人それぞれが人生のルーツの歌を持っている。
えぇ曲書きたいとか、そういうんじゃないねんけど…ともかく、俺にとっては、ちゃんとやろうということやねん。作詞作曲をやる人間やねんから、ちゃんとやろうやないかと思うたということや。'95年以降。あんまり、いろんなことを考えなくてもえぇんやないかということ。こうやれば、あいつに気に入られるとか、こう思われるとか…そんなことを考え過ぎてたな…。そういうことはあった。あいつらを嫌な気分にさせようとか…それまでは、そういったことばっかり考えてたからね。そんなに民謡が嫌やったら、民謡やろうとか…。
ニューエストを始めた頃も、『アリーナ37°』って雑誌のオッサンに“ニューエストに必要なのは『ユー・リアリー・ガット・ミー』みたいな曲や”…みたいなことを書かれてね。悪気はなかったと思うし、応援してくれててんけど。でも、23才の頃の中川はカチンと来て、そいつのことをライヴ会場で、ファンジンで攻撃しまくって…(笑)。そこまでやらんでもえぇのに(笑)。なんか、そういう感じやってん、若いときには。嫌やなぁ、ホンマ(笑)。ホント、'95年以降、いろんな人に出会って、いろんなことを教えてもらったという感じやで」
自分が全然無力で、自分らのことなんか誰も知らないし、
あぁ俺はこれまでチヤホヤされてきてんな…ということが
わかったのは、やっぱり被災地やったよ。
あの曲がドーナルに絶賛されたからでもないが、どこかでアイリッシュトラッドとの接点も感じてしまうこともあった。事実、中川敬はドーナル(アイリッシュトラッドを代表する名ミュージシャンで、プロデューサー)との共同作業も体験しているし、あの曲には、そんな背景や彼の指向性もあったのではないかと思う。
「(ケルトに関しては)昔からポーグスとか大好きやったし、ヴァン・モリソンがチーフタンズとやったヤツも好きやったしね。
(ドーナルとの絡みは)ギャグみたいな話(がきっかけ)やねん。ソウル・フラワー離れて、ソウルシャリスト・エスケイプをやるにあたって、レコード会社の会議室で“せっかくソウル・フラワー離れてやるんだったら、やりたい人いない?”ってこと言われて…。小野ヨーコと演歌のデュエットやりたいとか、ギターはキース・リチャーズがえぇとか、そんなアホなことばっかり言うてたわけや。そん中で、なんか現実的なことを言うたみたいやね。それが、チーフタンズとやりたいということやってん。それで川島慶子(プロモーター、プランクトンの中心人物で数多くのアイリッシュ系アーティストのライヴを手掛けている人物)と会わせてもらって…。でも、“中川君にはパディ(・マローニ。チーフタンズの中心人物)じゃなくて、もっと合う人がいるよ”って…。それがドーナルやってん。
たまたま彼が来日してて、飲み屋で俺も民謡なんかを歌って…(笑)。意気投合してしまって、なんかこのオッさんと一緒にやったら、おもろいことが起こるんやないかってことになってん。ホンマは、それまで彼の音楽聴いたことがなかってん。ムーヴィング・ハーツ(ドーナルが在籍していたアイルランドの伝説的なバンド)は聴いていたんやけど、全然文脈が違ってん。どっちかというと、『音楽は世界を変える』(不肖、今回のインタビュアー花房浩一が翻訳した書籍で、イギリスのジャーナリスト、ロビン・デンズロウ氏が音楽と政治の関連をドキュメントした名作)やったから」
実は、「強調してるだけやねんけど…(笑)」と言いながらも、けっこう英語を話すことを拒否してきたような中川敬が、こういった共同作業を実際にやってしまったというのは実に興味深く、面
白い出来事だった。
「観光なんかで(外国に)行ったことがないから…音楽をやるために海外に行ってるから…やりたいことがハッキリしてるから、何とかなるよね」
このところ、数多くのバンドが海外を目指すようになっている。そして、言葉をまったく理解できない海外のオーディエンスを前に演奏することで、大きく成長して帰ってくる。旅する子は育つということわざでもないが、確かに異文化に直接触れることが、大きな影響を及ぼすように思えるのだ。が、中川敬にとって、何よりも大きな影響を及ぼしたのは海外ではなく、'95年の神戸だったと言う。
「ただ、俺にとってはやねんけど、自分が全然無力で、自分らのことなんか誰も知らないし…。あぁ、俺はこれまでちやほやされてきてんな…ということがわかったのは、やっぱり被災地やったよ。言語は通
じるけど、自分にとっては、そういったところでやったほうがインパクトは強かったな。海外とか行ったのは、それよりはあとやったから、“人間ぼちぼち論”、人間なんかぼちぼちでえぇやんかというのが、俺の中にはあったからね。言語に関しては、いまだに困ってるけどね(笑)」
実を言えば、これからの話が、この連載の第1回目に遡ってフジロックのことになり、彼らにとってインディから初となるスタジオ録音の名作『スクリューボール・コメディー』へとつながっていくわけだ。
忙しさにかまけて、連載の完成までめちゃくちゃな時間がかかってしまったことは深く反省しているのだが、何よりもここでは、中川敬という人間が語ってくれた言葉をできるだけ多く記そうと続けてきた。わずか1時間半ほどのインタビューでも、彼の言葉には多くのことが語られているし、多くのことを学ぶことができる。これを、また、最初から読み直してくれることで、中川敬という人間の“ぼちぼち”の素晴らしさを感じていただければ幸いだし、今の、そして、これからの中川敬の言葉に、そして、歌にじっくりと耳を傾け、あるいは楽しんでいただければ、それに越したことはない。
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